個人所有の最後の城主たち

published at 24/08/2017

アンリ=アメデ・ド・ブロイ公妃

「これが欲しい、これが欲しい…」製糖業者ルイ・セイの孫娘、マリー=シャルロット=コンスタンス・セイ(1857年ー1943年)はある日、ブリサック侯爵夫人である姉のジャンヌ・セイ(1848年ー1916年)と一緒にロワール川のほとりを散歩していたとき、こう言いました。ショーモン・シュール・ロワール城を見て、すっかり気に入ってしまったのです。1875年3月17日、マリー・セイは17歳でショーモン城と1025ヘクタールの領地の所有者となりました。

1875年6月7日には、パリのマドレーヌ教会にてアンリ=アメデ・ド・ブロイ公と結婚しましす。

すでに両親を亡くしていたマリー・セイは、資産として金貨1200万フランとショーモン城、およびパリ・ソルフェリーノ通り10番地に所有していた個人邸宅を夫にもたらしました。当時フランスでこれほどの財産を所有していたのは、ロスチャイルド家を除いて他にありません。結婚後間もなく、ブロイ公妃はショーモン城を常居とし、半世紀にわたってこの豪奢な城で絢爛たる饗宴が催されることになります。

ブロイ公夫婦と大変親しかったダンディ、ガブリエル=ルイ・プリンゲ(1885年ー1965年)は、何十年にもわたって、晩秋の頃の3ヵ月、そして夏の1ヵ月をショーモン城で過ごしました。彼は、当時フランスはもちろんヨーロッパでも最も名高い館の1つに数えられたこの城での長い滞在経験から、特にこの頃の城の日常生活を綴った『30 ans de dîners en ville』(町での夕食30年記)という本を書きました。歴史的事実に関しての彼の知識が正しいという確証はないとしても、ブロイ家の生活についての記録が全く貴重なものであることは間違いありません。

「彼女(マリー=シャルロット=コンスタンス・セイ)は、かつらをかぶった従僕とともに、姉のブリッサック侯爵夫人の覆い付き四輪馬車でマドレーヌ寺院の前に着いた。寺院は招待客や見物人で溢れ返り、敷居や階段も群衆で埋め尽くされていた。その様子を見た彼女は姉にこう言った:『ねえ、ジャンヌ、人が多すぎるから、明日また来ましょう』1

「彼女は、球遊びでもするかのように大金を扱った。法外な値段だとののしりながらも、欲しい物は決してためらうことなく即座に手に入れた。友人を呼び寄せたいと思うと、すぐさま電報や電話で招待したが、相手が断る場合もあることを決して認めようとしなかった。そんな時は、皆が私を見捨てると言いながら大人げないほど落胆するのだった。[…] 彼女にとって、遠い国へクルージングに出かけるためにヨットを出航させることは、仕立て屋に行くために車を呼ぶ事と何ら変わりはなかった。」1

舞踏会や夕食会の招待客には、数多くのリストからお気に入りの人物を選びました。リストには、「社交界の親しい人」、「王室・皇室関係者」、「外国の大使」、「舞踏関係者」、「演劇関係者」、「ブリッジ関係者」、「その他の有用な人々」(才気あふれる独身者や独り身の女性で、財産はなくとも育ちが良く、その場の雰囲気に活気をもたらしてくれる人)といったカテゴリーがありました。

ブロイ公妃は、1年のうち少なくとも6か月はこの城に住みましたが、その間、週末のみの招待客とは別に常に15人ほどの客が数週間城に滞在していました。公妃は、ほとんどが「王室・皇室関係者」であったこの人たちを「仮住まいの客」と呼んでいました。ヨーロッパや近東の君主(イギリス王エドワード7世、ポルトガル王カルルシュ1世、ルーマニア王カロル1世、カプールタラ、ヴァドーダラー、パティヤーラーのマハラジャ)や、著名な学者や有名な芸術家(シャルル・ル・バルジー、フランシス・プランテ、フランシス・プーランク、マルグリット・ドゥヴァル)が数多くショーモン城を訪れました。

「私はここで、ヨーロッパ、そして世界中の文明国からやってきた最も高名な人物を見かけた。洗練された会話の美しい響きや、陶然としてしまうほど心地の良い豊かな表現を耳にした。ブロイ公妃は、人の心をとらえる知性に囲まれた偉大なる教養人であり、優れた芸術家であった。」1

ブロイ公妃は、気まぐれで、とどまるところを知らない空想力を持った女性でした。長所がたくさんある中で、1つだけ大きな欠点がありました。ルールや規律を嫌い、城の料理長や執事でも参ってしまうほど、時間にルーズだったのです。何時に料理を出して良いのか分からない料理長は、同じタイプのディナーをいくつも用意して(11品あまりの料理とデザート)いつでも出せるようにしていました。

1905年、クロニエの破綻が破産を招きます。しかし、ブロイ公の賢明な資産運用のおかげで、公妃の個人財産だけは守ることができました。それでも、長男アルベール・ド・ブロイ公(1876-1922年)と末弟ジャック・ド・ブロイ(1878-1974年)、次女マルグリット・ド・ブロイ公女(1883-1973年)の立会いのもとに親族会が開かれます。これまでの贅沢な暮らしについて長時間議論が行われた後、アメデ・ド・ブロイ公妃はこう結論を下しました:「これからは生活費を切りつめなければいけないのだから、おやつのプチ・パンとフォアグラはやめにしましょう」。フォアグラはなくなるにしても、ショーモン城での暮らしはこれまでどおり続いていくのでした。クロニエ破綻による損失は、金貨2800万フランに相当するかなりのものでした。とはいえ、ブロイ公妃にはまだ、彼女が好む贅沢な生活を続けていけるだけの十分な資産が残っており、忠実な友人や利害を共にする友人を寛大にもてなしました。

クロニエ破綻から数年後の1917年11月に、ブロイ公が亡くなります。資産運用に長けていた彼は、1875年からショーモン・シュール・ロワールの領地拡大に努めました。しかしブロイ公妃には運用管理の概念が全くなかったため、事業を中断させたまま放っておくことが多くなりました。そんな中、1929年の株式市場暴落で、公妃は数百万フランにのぼる損失を被ります。

1930年9月19日、公妃はロンドンで、スペイン親王ルイス・フェルナンド・デ・オルレアンス・イ・ボルボン(1888-1945年)と再婚。このとき、公妃は72歳、親王はわずか43歳でした。

巨額の財産を持っていたにもかかわらず、さまざまな財政的不運(クロニエの破綻、夫アンリ=アメデ・ド・ブロイ公の死、1917年以降の誤った資産管理、スペイン親王との再婚など)が重なり、公妃はパリ・ソルフェリーノ通り10番地の個人邸宅の売買とショーモンの領地の分割を余儀なくされ、またさまざまな美術工芸品を手放さなければならなくなります。

1937年10月12日には、国家がブロワ第一審裁判所を通して公益理由による収用を命じ、その代償として、歴史的記念建造物保護金庫から特別に金貨180万フランが公妃に支払われることになりました。国家への正式な引渡しは1938年8月1日に行われました。

公妃はその後パリの2つのパレスホテル(リッツとジョルジュサンク)やグルネル通りの自分のアパルトマンで余生を送り、1943年7月15日に86歳でこの世を去りました。

地方分権化政策に基づき、ドメーヌ・ド・ショーモン・シュール・ロワールは2007年2月からサントル=ヴァル・ド・ロワール地域圏の所有となっています。

1 町での夕食30年記, ガブリエル=ルイ・プリンゲ, Editions Revue Adam, 1950.


アメデ・ド・ブロイ公

1862年にアカデミーフランセーズ会員となり、1873年と1877年にマクマオン大統領より首相に任命されたブロイ公爵ジャック=ヴィクトル=アルベール(1821-1901年)の息子、アメデ・ド・ブロイ公(1849-1917年)は、騎兵大尉として1875年から1890年まで軍職に就きました。彼の妻は、この職業のせいで夫が不在であることに絶えず不満を訴えていました。妻に執拗に説得されて軍を退役することになったのは恐らく間違いないでしょう。

退役後、ブロイ公はさまざまな学問に興味を持つと同時に、ショーモンのような大規模な領地を管理するうえでの重要な課題に取り組みます。

こうした取り組みは、以下のように段階的に行われました。

1875年~1900年: 建築家ポール=エルネスト・サンソン(1836-1918年)に城の修復・近代化を依頼。城の傷んだ石材はひとつひとつ取り除かれ、新しいものと交換されました。父ブロイ公爵が、息子に宛てた1898年10月3日付の手紙の中でこう書いています:「私が最も高く評価するもう一つの長所は、お前が、この歴史ある美しいショーモン城を、特色はそのままにに、見事な美的感覚で修復したということだ。私は、この素晴らしい偉業が、判断を下すにふさわしい人々によって高く評価されたことを心から願っている。それによって、芸術家の世界で、何事においても謙虚なお前が自ら求めようとしない名声を得ることができるだろう。お前にはそのような評価を受ける資格があるのだから。」 1877年、ポール=エルネスト・サンソンは、当時ヨーロッパで最も豪華で近代的な厩舎の建造に着手しました。

こうした大規模な改修計画の第二段階として1875年に始まったのが、賃貸借契約金の値下がりとこの地方の農業経営の悪化に伴う農地の買い取りです。こうして、領地の面積は、当初の1025ヘクタールから、ブロイ公が死去した1917年にはおよそ2500ヘクタールにのぼりました。

ブロイ公は、併合した農地の収益を上げるために、真っ先に排水工事に取り掛かりました。また、耕作器具の作業を妨げる岩石を取り除き、小さな溝を埋め、荒地を開墾し、森林を伐採して、耕作合理化のための広大な農地作りに努めました。

雨水が溜まっていたかつての泥灰岩採取場は埋め立てられ、狩の獲物の水飲み場として沼が作られました。農道の改変や修復も行われ、ブロイ公は、自分の領地が存在する市町村に対して、費用は自らが負担する田舎道の総合整備計画を提案しました。こうして、全長33キロメートルに及ぶ大規模な通路網と、6つの狩猟の館、7つの農場が設けられました。

改修計画の第三段階は、1884年から造園家アンリ・デュシェーヌ(1841-1902年)が手掛けた、建造物(給水棟、犬たちの墓地、丸太造りの橋)を含む大庭園です。

最後に、1903年から1913年にかけて、ブロイ公は建築家マルセル・ボワイにモデル農場の整備を委託します。牛飼いと荷馬車引きの住居、自動車置き場、ロバ小屋、耕作器具置き場、豚舎などからなる、合理化された近代的な作りでした。この工事は10年続きますが、完工には至りませんでした。

アメデ・ド・ブロイ公は、気管支肺炎のために68歳でこの世を去りました。1917年11月6日、息子のジャック・ド・ブロイ(1878-1974年)が、妻に宛てた手紙で、父親の死をめぐる自分の気持ちを次のように書いています:「公妃(アメデ・ド・ブロイ公妃)は、父の死とともにすべてを失った。善良で心優しい、理想の夫でもあった父。妻の幸福に自分の一生を捧げ、妻のためだけに生きた人。

一週間後の1917年11月13日火曜日、ブロイ公の遺体はショーモン城に運ばれ、礼拝堂に仮安置されてから、ショーモンの墓地にある一族の墓に埋葬されました。